ひきこもりの原因を探ることに意味はあるのか?

ひきこもり

Twitterを見ていると、たまにひきこもりの人が「社会に恨みがある」とか「親を恨んでいる」といった発言をしているのを見る。

「今の辛い状況にあるのは、全て親のせいだ」

「氷河期世代のせいで上手く就職できなかった」

特によく言われる恨みの理由だ。

また、2019年6月ごろに起きた高齢のひきこもりによる川崎の事件でも、「強い社会への恨みがあったのではないか」みたいなことが言われたりもしていた(実際の動機は結局分からず終いだが)。

このような恨み・憎しみはどんなひきこもりにでもあるものだろうか?

そして、このような感情はひきこもりにとってプラスに働くのだろうか?

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親や社会に恨み・憎しみを持ったことがないひきこもり

まず、「全てのひきこもりが恨み・憎しみを持っているか?」というと、答えはノーだ。

なぜなら、私が社会や親に恨み・憎しみを持ったことがないからである。

私がおっさんになって丸くなった、とか、それなりに楽しい生活をしているから、というだけではない。

就職活動に失敗したり、仕事でメンタルがやられたりして、20代の頃は辛いひきこもりの時期もあった。

しかし、当時から親が悪いとか社会のせいとか思ったことはなかったのだ。

では自分の失敗の数々をどう消化していたかというと、私は自分自身に全責任があると思っていた。

就職活動に失敗したのは自分のせい、メンタルがやられたのも自分が弱いせい、ひきこもるのは自分の勇気がないせい、こんな具合である。

そこに社会情勢や親が入り込む余地はなかった。

だって、実際に自分が失敗しているのだから。

同じように活動してしっかり就職したり、仕事を上手くやっている人を見ていたため、余計に自分が悪いという気持ちが強まったのだろう。

ただ、この考え方はますます自分を追い詰めるだけで、何も良い結果を生まなかった。

例えば就職活動の時は、就職活動に落ちる ⇒ 自分を責める ⇒ 気分が落ち込む ⇒ 次の就職活動で余計に委縮する、という悪いループに陥ってしまっていたのだ。

失敗が積み重なるだけでなく、メンタルへの負担も大きく、これが後の病気にも繋がってしまった。

失敗は社会・親の責任にした方が良いのか?

自己責任で自分を責めるのは、結局プラスにならない。

では、最初に書いたような自分の失敗を社会や親のせいにするのはどうか?

恐らく、誰かのせいにしても同じようにしんどいだけだと思う。

自己責任論と他者責任論は真逆のようでいて、どちらも「怒り」の感情がベースになっている。

向かう矛先が自分か他人かの違いだけ。

怒りの感情はストレスに繋がるため、結局苦しいのは変わりない。

しかも他人への怒りは、考え続けていると自分の中でどんどん怒りが増幅していくようなので、これが事件の引き金になってしまうこともある。

“氷河期世代は時代に見殺しにされた世代!”みたいな雑誌やネット記事も数多くあるが、これもあまり当の本人が読んで「そうだそうだ!」となるのは良くない気がする。

ひきこもりの原因は「探らない」が一番!

自己責任で自分にプレッシャーをかけて大きく成長したり、他人への憎しみを糧に成長する人もいるかもしれないが、そんな人は一握り。

ひきこもりの原因を自分に求めても、他人に求めても結局良い方向に行かないことがほとんどだと思う。

では、どうすれば良いのか。

原因を考えなければいい。

そもそも、人が失敗や嫌な出来事の原因を探すのは、今後同じ失敗をしないためだ。

だが、原因を求めることが余計に自分を不幸にするのなら、原因を考えない方がマシだろう。

政治家と違い、ひきこもりに説明責任はないので、有耶無耶にしたとことで何も問題ないのだ。

どうしても何かのせいにしないと気が済まないという場合は、「運が悪かった」とか「神様がいじわる」といった、特定の人じゃないもののせいにするのが一番気が楽になると思う。

(実際に「運が悪い」という要素はひきこもりの人に、多かれ少なかれあるはずだ)

今のやりたいことを考えよう

今更「ああしとけば良かった」「あいつのせいでこうなった」と思ったところで、過去は変えられない。

かと言って、将来のことを考えても漠然とした不安が広がるばかり。

だからひきこもり中の人は、今「どうしたいか」を考える時間を沢山作ってみるのをオススメしたい。

例えば、今お金を稼ぎたいのならお金を稼ぐ手段を探して自分に合ってそうなものを探す、ちょっと遊びたいなら自分が楽しめる遊びを探す。

何も思い浮かばなければ、本やネットなど色んな情報に幅広く触れてみるのもいいだろう。

過去より今のことを考えている方が、きっと将来に繋がることができるはずだ。

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